1- レス

文龍明の性格


[32]ランナー:2004/10/11(月) 14:56:05:00
Subject: 文龍明の性格
(以下の記事も加えておきます。)

無題 投稿者:薔薇売り少年 投稿日:2003/06/19(Thu) 16:49 No.5

教会史から隠蔽されているもの 投稿者:薔薇売り少年 投稿日:2003/03/27(Thu) 11:48 No.2449

言い尽くされたことかも知れませんが・・・
教会史から排除されている様々な婚姻歴を教会史に埋め込むとこのようになりました。
何方かのご参考になるかもしれぬと思い老婆心ながら書かせていただきます。

1941年
早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科に入学。学業の傍ら、宗教哲学、聖書の研究をする。休みの日には、川崎や横浜の工場で働く。

1944年
京城の土木建設会社の鹿島組に電気技師として就職。
その年10月に日本留学時代の抗日運動の事実が発覚して日本人官憲に逮捕され拷問を受ける。日本人官憲による拷問を受けながら祈られた。

1944・5・4 崔先吉女史と結婚
1945・4・28 崔先吉女史と婚姻届

1945年2月出獄、3月鹿島組に再就職。

1945年8月15日(日本敗戦)
韓国解放とともに退職。追われる日本人の官憲たちを助けて逃がす。
原理の解明はこの頃完成したとされる。そして自らがきたるべきメシヤであると悟られる。

1946・4・7(3・1)文聖進氏誕生

1946年6月11日には、金仁珠女史が、7月17日には金元弼氏が弟子となっていった。(統一教会公式HPより抜粋)

そのような中で、1954年5月1日、「世界基督教統一神霊協会」の看板が掲げられて出発することとなった。キリスト教を中心とした第一次摂理が失敗したため、それ以後、それに代わる基台を
求めてきた蕩(とう)減(げん)路程であったが、釜山以後の歩みの中でようやくにして弟子を復帰した基台の上で成された創立であった。(統一教会公式HPより抜粋)

1954  文師、金明姫女史と結婚
1955・8・17 喜進氏−−−1969・8・1死亡
1957・1・8 崔先吉女史と離婚(ファミリー1998年11号)

1955年7月4日の午後五時、文先生は兵役法違反および不法監禁などの嫌疑で逮捕された。それは北から南に来て、兵役を避けるために兵籍登録をせず、36歳にもかかわらず43歳として登
録し、また某大学生を3日間、不法監禁したためというものだった。5日には先生の身を案じて署に行った金元弼氏もそのまま拘束され、後日には劉孝元協会長をはじめ3人の幹部が拘束され
た。(統一教会公式HPより抜粋)

金元弼氏−達玉女史「1960・4・16」結婚
金東淑女子(1955・2・22)生
婚姻届(1976・9・20)


アダムとエバの堕落のゆえに、世界には堕落した子女が繁殖していった。これらの堕落人間が再び神の前にその子女として立つようになるには、アダムとエバの失敗を蕩減復帰する人類の真の
父母が現われなければならない。それゆえ、アダムとエバに生命をかけて従う3天使にかわる3弟子を立てようとしたのがイエス様であった。しかし、その弟子たちが裏切ったため、イエス様は人
類の真の父母として立つことができなかった。すなわち個人路程の段階で勝利できなかったがゆえに、イエス様は家庭的摂理を出発することができなかったのである。

文先生においても、1945年からさまざまな蕩減路程が繰り返されてきたが、キリスト教にかわる統一教会を立て、その中でアダム、エバにおける三天使を蕩減復帰し、イエス様における3弟子を
蕩減復帰する3人の基台を1960年に完全に復帰した。このことにより個人路程を再び蕩減復帰された文先生は、次の家庭的摂理を出発することができたのである。(統一教会公式HPより抜粋)

1960・4・11(3・16)文師 韓鶴子女史 聖婚式


統一教会の公式見解に、文師及び弟子の金元弼師の結婚歴を並べて見ると統一教会の矛盾が一目瞭然である。

ちなみに、教会では、文師の1回目と2回目の結婚に関しては一切原理的な公式見解がない。

矛盾しているのだから、原理どおりになるはずがないからでしょう。

金元弼師に関しても、明らかに1960年前に子供を産んでおきながら、結婚式は1960年にするなど矛盾というか
工作が見られる。

原理的には、1960年に初めて家庭的摂理を出発できると言っているのに、それ以前の結婚はいったい何を意味するのであろうか?


統一教会信者完成までの路程

1.統一原理を理解させ、真理ではないかと思わせる
2.再臨論で文師があたかもメシヤであるかのようにごまかし信じさせる
(※東の国=中国、韓国、日本と限定したり、中国は共産化云々とあるが、1920年にはまだ共産化されていない、その国は2つに分断されなければならないといいながら、分断されたのは、文師
の1回目の結婚後の1948年だったり・・・メシヤが韓国に来るという論理的な根拠は全くない)
3.文師の路程と称し、重要な部分や都合の悪いことを一切排除した歴史や多
額の費用を投入して呼んだ著名なゲストが関わっている活動を紹介する
4.この時点で、文師がメシヤであることを信じさせ、入信させる
5.入信したら最後、真理だと思わされえいる原理を巧みに用いて、アベル・カイン(リーダーの言うことは間違っていても信じ、従わなければならない)を徹底的に叩き込む。また、文師の沢山の美
談や説教を読ませる。
6.基準が低い(=文師をメシヤとして受け入れる、信じる度合いが低い)メンバーには、文師の2度の結婚の失敗の話や、血統転換の儀式などの重要なことは教えない。
7.文師をメシヤだと何の疑いもなくなってしまえば、原理の矛盾点を指摘されようが、教会のネガティブな話を聞こうが、何か深い理由がるのだとかサタンだとか勝手に自分で納得してしまうようになる。



Re: 無題 itiro - 2003/06/19(Thu) 21:47 No.9

結婚について
崔元福先生との重婚状態について書いていない

1954年より1978年ごろまでセンセーは基本的に崔元福先生との事実上の結婚状態
の上にほかの女性との結婚をしている

つることの結婚も事実上重婚状態

ここでラケルとレアが果たせなかった女性としてのヤコブの勝利を得るためであった
との事後説明がついている。



崔という名前へのこだわり カインの末裔 - 2003/06/21(Sat) 16:56 No.49

itiro さんへ、いつもお聞きしたいことがあったのですが、連絡できなかったので、今回、投稿させていただきます。

<崔元福先生との重婚状態について書いていない
<1954年より1978年ごろまでセンセーは基本的に崔元福先生との
<事実上の結婚状態の上にほかの女性との結婚をしている
<つることの結婚も事実上重婚状態
<ここでラケルとレアが果たせなかった女性としてのヤコブの勝利
<を得るためであったとの事後説明がついている。

上の記述は、私も事実だと複数の方々に確認していますが、年代は、1978年でなく、1983年ぐらいまでではないでしょうか?

ヤコブの21年路程(1960年から1981年)とするには、長すぎると思った記憶があるのですが。

それから、確か、元福先生が目の治療で、日本経由で韓国に帰られた時から重婚状態がなくなったと思います。

 その時に元福先生と直接話した方から聞いたところによると
文師夫人が嫉妬で服を挟みで切ったり座布団を蹴飛ばしたり、
お子さんたちが、元福先生の座る座布団を隠したりしてどうしようもない状況になったので返されたと言っており、
文師夫人の相当な批判をしていたそうです。

その当時は「真のお母様の勝利とは女の嫉妬でカイン型の妻を追い出したことか」
などと一緒にいた古参の幹部が説明していたのが、
妙に印象に残りました。

 この辺の問題には、非常に関心がありますので、色々教えて下さい。

 西川先生に聞いた時には、西川先生も文師と元福先生との関係からメシア性を疑い始めたと語っていました。

第一次世界巡回の時のお話だそうです。文師の最初の妻、

そして元福さん、

さらに西川先生の本名などが、

なぜ崔という名前であるかというと

西川先生によれば文師は、韓国では崔という名前は、鳳凰に王冠がかぶさった名前で崔家に救世主が生まれるという言い伝えが長くあったため
文師は自分のメシア性を示すために崔という名前の女性や側近にこだわったそうです。



Re: 無題 itiro - 2003/06/21(Sat) 18:50 No.50

どこまで続いたかはこれは定かではありませんが
はじまりは確定的だと思います
世界路程のときまず日本に来られましたよね

そのとき私など
すっぴんの色気なしの女性しかいない統一に
いきなり口紅アイシャドウ、イヤリングの、真っ赤なスーツの女性が来た
のに戸惑っていたら、

やっぱり恐る恐る
崔先生はなぜお化粧をなさるのですか
と聞くやからがいて

答えていわく
「あるものは利用します、センセーが喜んでるのだからいいのでしょう」
とあっけらかん

しかもつる子との3人性行為も隠さずにべらべらと
まったく驚きでした。

祝福のときの聖酒式ももっぱら一人で采配を振るって
このワインには私たちまことの語父母様たち(3人set)の精液が入っています
とこれまた堂々と

つる子などちいさくなって言われるまま
センセーはそれでいいのだとにこにこしながら
ワインを女性に配っていました

そのころ韓国の若いシックと論争をして
あの崔先生とはいったいいかなる立場のお人なのかを言い争いましたが
彼はカインのお母様の一点張りでそれ以上論議がすすまなかった

まあ、つる子と崔先生ではお年が違いますし教養もおありですから
センセーも夫婦としては崔先生を婦人格にしていましたね

いつぞやセンセーが怒鳴っていたことがあって
なにいってんかなとシックに聞いたところ
やはり女の戦いで
崔先生に分があったのでしょう
「つる子おまえは子供を生んでればいいのだ」
といっていたそうです。

正直言って崔教授とおばかのつる子では勝ち目はなかったのでしょう、

その崔先生もよる年波には勝てず
またセンセーの性交がこれがまたしつこいそうで
体力がなくなり更年期を迎えたのでは満足させられるわけもなく
お馬鹿のつる子も知恵もついてきて
女の闘争は幕を引いたのではないでしょうか?



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